映画を読む

ドイツ某都市にて勉強中です。「映画を読む」と題して、観た映画の感想や印象等を淡々と書いていこうと思っています。ネタバレに関しては最低限の配慮はしたいですが、踏み込んだ内容も書くと思うので、気にする方はご注意を。

いつ崩れ落ちるともしれないアイデンティティ(フィオナ・タン「歴史の未来」/Fiona Tan "History’s Future" 2015年)

ここのところ映画館に行けていないので、昨年観た映画と、それと関係する展覧会について。

フィオナ・タン「歴史の未来」(Fiona Tan "History’s Future" EN/DE/FR/NL 2016)は、昨年9月末に鑑賞。フィオナ・タンは日本でも何度か個展を開いたことがある芸術家で、この「歴史の未来」は彼女の最初の長編(といっても100分弱だが)映画作品だそうだ。

とにかく強い印象と残響を残す映画だった。基本的には、暴漢に襲われて記憶を失ったある男性が自らのアイデンティティを求めてヨーロッパを放浪する、というモチーフが映画の中心にある。とはいえそれがわかりやすい単線で物語られることはなく、極めて断片的に、現実と心象イメージの境目も曖昧なまま、物語とも言えないような不安定な物語が展開されていく。自分の名前も、生い立ちも、国籍も、自身に関する記憶らしい記憶は全て喪失してしまった男性はもはや「自分」を束ねる紐帯を失っている。それに対応するかのように、この映画にも中心となる線は見当たらない。そして映画を観る者もまた、現実と心象の断片性のなかを漂う彼とともに、自らの中心を失ったような、拠り所を失ったような感覚のなかに突き落とされる。アイデンティティなるものはいつ崩れ落ちるかもしれないものなのだということを、この映画はそれを観る者に追体験させる。そこにこの映画の決定的な残響があった。私自身はこの映画を観た後に、自分が自分の名前を忘れていないかどうか、歩き方を覚えているかどうか、自宅への帰り道を記憶しているかどうか、ひとつひとつ確認せずにはいられなかった。自分もまた、映画の主人公と同じように、自分を束ねる紐帯を失ってしまったのではないかという思いから、なかなか抜け出すことができなかった。後に残ったそのひどく強い残響という点だけでも、個人的には、昨年鑑賞したなかで最も印象に残った映画だった。

ところでこの映画の主人公は、確かに自らのアイデンティティを見失ってはいるのだけれども、同時に全ての手がかりを失っているわけではない。彼はさしあたり、言葉を失っていない。目が覚めた病院で彼は、医師と英語でコミュニケーションをとることができる。映画中では、ドイツ語やフランス語の会話も為される。彼が生きてきた場所はヨーロッパであることはわかる。とはいえ彼は、彼の妻だという女性のことが思い出せないし、彼女と行ったという旅行のことも記憶から呼び出せない。彼の容貌からも確かなことはほとんどわからない。彼はどことなく中央アジアか西アジア系の血を引いているようにも見えなくもないが、とはいえ彼の容貌や振る舞いそのものは、現在のヨーロッパにおいて全く珍しいものではない。英語やフランス語を話す限りでは、彼は誰からも違和感を持たれることはない。彼はヨーロッパにヨーロッパの人間として生きることはできている。だが当の彼自身は、違和感と場違いの感覚から抜け出すことができない。彼は彼が誰なのかわからないのだ。生きてはいける。しかし、やはり彼は、自分が何者であるかというアイデンティティを問わずにはいられない。

 

アイデンティティを見失いつつ問い求める彼のこの姿は、現在のヨーロッパが抱える問題を突き詰めたところで生じるものだろう。つまり彼の姿は、EUの枠のもとで国境が実質無効なものになり、同時に長年にわたる移民や難民の統合、そしてその子孫の定着によって、もはや国家や民族のアイデンティティが希薄なものとなっているヨーロッパの映し絵であるのだ。もちろん今なお、ヨーロッパのなかにはさまざまなナショナル・アイデンティティが存在するし、それぞれの国家や民族と自分自身を同一化して生きている者も未だ多く存在する。しかしもはや少なからぬ者にとって、自らのアイデンティティは一つの民族や国籍とぴったり重なり合うものではなくなっている。そしてそれは、可能性としては、誰しもに生じうる事態なのだ。勿論そこで、「ヨーロッパ」というより包括的で柔軟なアイデンティティを持ち出す者もいるだろう。とはいえやはり理念としての「ヨーロッパ」は、かつてのナショナル・アイデンティティ以上に広く曖昧な概念であり、拠り所としてはあまりに抽象的だ。だからこそこの映画の主人公は、ふらふらと、よろめくように、暴力をかきわけながら、自分が掴まることのできる具体的なアイデンティティを探し続けることになる。

もっともこのことはもはやヨーロッパや欧米諸国にとどまる話ではない。むしろグローバル化と呼ばれる世界史上のプロセスの帰結として、そこに巻き込まれる誰しもに潜在的には生じうる話であるだろう。この映画の監督であるフィオナ・タンその人の経歴が、このことを静かに証言している。中国人とオーストラリア人の両親を持つ彼女は、インドネシアのスマトラ島、ブカンバルに生まれ、現在はアムステルダムとロサンジェルスで活動しているという。彼女に対して、中国か、オーストラリアか、インドネシアか、それとも「ヨーロッパ」か、アメリカか、そういった一つのわかりやすい大きな固有名詞をもって自らのアイデンティティを表現せよと要求するのは、おそらく無理難題なのだろう(印象的なことに、展覧会のキャプションで彼女の下の来歴欄にはつねに「インドネシアのブカンバルに生まれ、アムステルダムとロサンジェルスで活動している」と書かれていた。通例ここは、ただ一言、出身国を書いて済まされるような欄だ。しかしおそらく彼女にとっては、自分の生きた経歴を伝えるにあたって、これが最小限の説明なのだろう)。おそらくこのような問題に対して、「誰しもが成年になるとともに一つの(或いはせいぜい二つの)ナショナル・アイデンティティを選択しなければならない」と主張する者は一定数いるだろう。さしあたり現在の法律の話としては、この主張は一定の妥当性を持つ。とはいえ法律上のナショナリティが、自らが何者であるかという自己認識としてのアイデンティティと一致「しなければならない」というのは、もはや現時点においても、普遍性のない、現実にそぐわないフィクションでしかない。出生地も、国籍も、使うことができる言語も、その人を構成する一要素ではあってもその人そのものとは一致することがないという事態は、もはやそれほど珍しい事態ではなくなっている。長い間確固たるものであると妄信されてきた理念的な「大きな」アイデンティティは、実はそれほど普遍的なものでもなく、それどころかいつ崩れ落ちてもおかしくないものなのだ。我々の世紀はもはやそのような歴史的境位に入りつつある。反グローバリゼーションやナショナリズムの再燃は、そのような歴史的境位に対する反動ではあっても、ここまでの歴史を逆向きにするものではない。ひびのはいった大きな物語を壊さないように保守することはできるかもしれないが、現実がもはやどうごまかしてもその器に適さないものであるとわかってしまった以上、その物語のなかに全てを入れ込むことはできない。もし無理やりに押し込もうとするならば、破局的な崩壊という代価を払うことになるかもしれない。かつての大きなアイデンティティの物語は、現実に適さない、いつ崩れ落ちるともしれないものであることが明らかになった。そのことをまた、この映画は静かに、しかし決定的に証言している。

 

しかしアイデンティティ喪失の後でも、自分が何者であるかは問われ続ける。大きなアイデンティティの物語が崩れ落ちたときに、そこに残る可能性は、崩れ落ちた破片から成る、小さなアイデンティティの物語だろう。自分が生まれた場所、育った家、仲のよかった友人、旅行した土地、口にした食事、出会った人、観た映画、苦痛、快楽、肌触り、まどろみ、そして忘却のなかに沈んだあらゆるもの。そういった具体的な現実の欠片のすべてから人は、かろうじて自らのアイデンティティの物語を作り直すことはできるかもしれないのだ。とはいえそれもまた、いつ崩れ落ちるかもわからない、小さく脆い、壊れやすいものだろう。記憶の喪失とともに、瞬く間にバラバラに砕け落ちてしまうものだ。とはいえもはや、大きなアイデンティティは、多くの個人にとってはあまりに抽象的なものでしかない。だから結局できることは、砕け落ちたその破片を、もう一度拾い集め、たとえ以前と同じ形ではないにしても、もう一度組み合わせて、必要であれば別の瓦礫も用いて、新しいアイデンティティを作り直すことでしかない。たとえそれもまた、いつどのようにして崩れ落ち、忘却のなかに流れ去るものであるかわからないにしても。そうして、断片を集め直すというこのプロセスそれ自体がまた、一つの断片として、小さな物語の一部になる。だからこの映画の主人公は、何も思い出すことができないままに、それでもかつて自分と関係していた何かを求め歩くのだ。

やがて、辿り直す旅そのものが自らのアイデンティティの一部となる。忘却のなかに沈んだ事物に再び触れるというそのことが、たとえそれによって過去の記憶がそのままに蘇ることがないとしても、ひとつひとつまた新しい具体的な経験となり、物語の材料になる。とはいえこの経験の記憶もいつまた消えるかはわからないので、この試みもやがてまた、寄る辺なく無力なものであることが気付かれる。だからそれに彼が耐え抜くことができるのかということには、疑問符がついたままだ。しかし名前も故郷も失った彼は、大きなアイデンティティというフィクションによってこのような歴史的境位から脱出することもできない。彼が生きる限りは、断片的であろうと具体的な経験という材料をもって、小さなアイデンティティを作り直すことしかできないのだ。それはさしあたりひどく頼りなく、ひどく崩れやすいものに思われる。しかしそもそも、我々一人一人が実際に辿ることのできる現実の生は、壊れやすい、無常さと背中合わせのものだ。だからこそ我々のアイデンティティもまた、個人的なものであろうと集団的なものであろうと、いつ崩れ落ちるともしれないものなのだ。このことが露わになり自覚されざるをえなくなるというそのことが、予感され、既に現れつつある「歴史の未来」なのだろう。だからこそこの映画は、より大きな歴史の進歩などという未来の物語を作り出すことをせず、崩壊とわずかな可能性との狭間で揺れる小さな物語の姿を、おぼつかない不安定な仕方で、描き出しているのだ。

 

…今年になってから、フィオナ・タン「時間、時代の地理学」(Fiona Tan "Geografie der Zeit")展を観に行った。それについても少し書きたい。

この展覧会は、7つのビデオ・インスタレーションから成るもので、それぞれはこの映画ほどの強い印象はなかったが、とはいえ見ごたえのあるものだった。そこで気付いたのだが、彼女の多くのビデオ・インスタレーションは、映画「歴史の未来」と同じ問いを様々な仕方で主題化しているものだった。それはつまり、時間、時代の移ろいのなかで人を「何者か」たらしめているものは何であるか、という問いだ。それはもっと抽象的な言い方をすれば、変化のただなかで同一に見えるものを同一に見せているのは何であるか、という問題でもある。とりわけこの観点において、彼女の作品からは、いくつかの基本的なモチーフが読み取れるように思えた。以下に箇条書きにしたい。

一つには、時間、時代が流れゆくものであり、最終的には消え去るものであるということ。

二つには、その流れと消え去りのなかにはそれでも過渡のなかに辛うじて留まる同一性のようなものがあるが、その同一性それ自体もまた別の緩やかな変動のなかにあり、しかも曖昧で容易に取り違えられるものであること。

三つには、むしろその同一性を同一性のようなものとして際立たせるのは、場所であり、身にまとうものであり、表情であり、そういった移ろいやすく束の間に消え去るがしかし具体的なものであること。

四つには、この消え去りやすい具体的なものは容易に忘れられるが、それらのものが忘却から浮かび上がったときには、それまでとは別の具体性と現実性をもって、自明であったはずの同一性を揺るがし、同一性の見え方を変化させうるということ。

時間は流れ消えるものだという最初のモチーフだけを強くとると、彼女の作品は、ありがちな万物の生々流転説(全ては流れ消え去る、ゆえに空しいものである、というような説)を表現したものに思われるかもしれない。実際彼女の作品群は、ある程度までそのような世界観の上に成り立っているようにも思える。とはいえ私には、彼女の関心はむしろ、そのような「流れ」のなかにある「流れ去らないもの」にこそあるように思えた。より正確に言えばそれは、「流れのなかに一時的にであれ留まるように見えるもの」或いは「流れ去ったように見えて別の仕方で再び現れるもの」だと言えるかもしれない。そしてその「流れ去らないもの」の同一性≒アイデンティティは、逆説的なことに、「流れ去るように見えるもの」によって成り立っている。そしてこの「流れ去るように見えるもの」は、束の間のものとして現われ、過ぎ去り、時間とともに忘却のうちに沈むものである。具体的に言えばそれは消耗品であり、廃棄物であり、打ち捨てられたものである。個人のアイデンティティも、さらに言えば「我々」という集団のアイデンティティが今なお成立するとすればそれもまた、このような打ち捨てられ忘れられたものの集積の上にこそ、はじめて可能なものなのだ。

展覧会には、フィオナ・タンの「幽霊の家々Ghost Dwellings I-III」という三連作のビデオ・インスタレーションがあったのだが、その三作目は、2011年の東日本大震災による原発事故の結果として立ち入り制限区域となった福島の一地域を舞台に、2014年に作成されたものだった。こういう作品があることを全く知らずに、しかもキャプションを読まずに映像を見始めた私は、ある種虚を衝かれた思いだった。日本について、或いはこの事故についてよく知らない者は、キャプションを読むことなしには舞台がその場所であると気付くことさえできないかもしれない。それくらい映像は淡々と、打ち捨てられ放棄された事物を追っていた。このビデオ・インスタレーションの部屋にはあまり人がいなかったし、部屋に入って来ても件の映像を最初から最後まで観ている人は稀だった。それは仕方のないことかもしれない。東アジアの一地方の荒廃した町など、そこに打ち捨てられた廃屋や廃棄物など、中身を明らかにしないまま途方もなく積み上げられた黒いごみ袋の山など、多くの人にとってはそれが何を意味しているのか不明瞭なものでしかないだろう。しかし私にとっては、そういうわけにはいかなかった。それらの事物は、自分が生まれた国やそこに住む人々の生活のなかで生起し、廃棄され、多くの人によって少なくとも日常のレベルでは忘れられたが、しかし今なおそこに存在しているだろうものなのだ。もし我々が今なお、そしてこれからも「日本」や「日本人」という集合的なアイデンティティについて何かを言い、何かを考えることができるとすれば、ここに打ち捨てられたものたちは、そのアイデンティティを可能にする現実の事物でありうるだろう。きらびやかで見栄えのよい理想の物語だけによって作られたアイデンティティでは、現実を掬い取ることができない。むしろ現実の片隅に追いやられ忘れられた何ものかが、過去から現在を成しているものであり、おそらく未来をも成すものであろう。もっともこうして成されるアイデンティティも、しょせんは相対的で、その意味で小さな、いつ崩れ落ちるともしれないものでしかないだろう。それでもアイデンティティを語ることがやめられないとすれば、片隅に捨ておかれた現実は、捨て去ることのできないその一構成物なのだ。

残された者のエゴイズム、傷と嘘を携えて生きること(フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」/François Ozon "Frantz" 2016年)

※2017年10月11日~14日、本記事を加筆修正しました。

 

フランソワ・オゾン「婚約者の友人/フランツ」(François Ozon "Frantz" DE/FR 2016)を鑑賞。

 

おおまかな感想、印象

独仏合作の映画。事前に読んだプログラムに「喪失と、悲しみと、愛が辿る不思議な道をめぐる時代を超えた反戦映画」と書いてあったこともあり、観る前は(もっと言うと観始めて前半の一時間くらいまでは)大戦の反省や独仏の友好といった良くも悪くも記念碑的なテーマを扱ったものだと思っていた。が、ストーリーの展開とともにこちらの先入見への裏切りと驚きが続き、気が付けばしっかりと物語に、そしてその中で動く人物たちにのめりこんでいる自分がいた。もちろん反戦映画ではあるのだろうけれど、それ以上に、人間とその感情を丁寧に描いている作品だったと思う。「戦争による悲劇とそれを乗り越える者たち」という綺麗な構図に甘んじず、戦争を生き残った者たちのエゴイズムを丁寧かつ時には露悪的にさえ表現しようとしていて、そこには作り手の、ある種の誠実さと野心を感じた。それはまた同時に、着想元となったエルンスト・ルビッチの作品で描かれていなかった人間の現実にアプローチする試みでもあっただろうと思う。繊細な映像表現もそこに相まって、端的に観てよかったと思えた映画だった。

 

おおまかな(前半の)あらすじ

この映画に関しては、物語の筋が決定的な役割を果たすものと思う。なので、(この作品がはたして日本で公開されるかはわからないが)これから観る人の映画体験を損なわないためにも、以下では詳しいあらすじを控えて、最低限の前置き的説明に留めておくことにする。

時代は第一次世界大戦直後、舞台は青年フランツの故郷であるドイツの小さな町。この町の他の多くの青年たちとともにフランツは、先の大戦のフランス戦線で命を落としてしまった。彼の両親も、彼の婚約者も、まだ彼の死を消化しきれていない。毎日彼の墓を参る婚約者アンナは、ある日、彼の墓にバラを手向けるフランス人の青年アドリアンに出会う。アドリアンは、大戦前にフランツがパリに留学していた際に知り合った友人であるという。フランツのかつての友人を、アンナとフランツの母は歓迎する。しかしフランツの命を奪った戦時の敵国フランスから来た彼を、フランツの父は受け入れることができない。彼の「この人殺しめ」という言葉に、アドリアンは頷き、それでもなおフランツへの思いを語ろうとする。アドリアンの真摯さに、最初はフランス語を聞くことさえ我慢ならなかった父も、少しずつだが、彼の言葉に耳を傾け始める…

というのが、映画の出発点であり、ここから物語が展開していく。これ以上の詳しいあらすじは、さしあたりここには書かない。

 

前半における、追憶からの過去の乗り越え

基本的には、原題の"Franz"が示す通り、戦死したフランツをめぐる物語である。彼はもはやそこにいないのに、話の中心にはいつも彼がいる。「彼のことは忘れて、新しい人生を始めるんだ」と、アンナに求婚する者もいる。だけれどアドリアンは、「フランツのこと忘れられると思う?」というアンナの問いかけに、そんなことはできないと答える。フランツへの追憶を共有する者同士として彼らは、心を寄せ合いはじめる。

やがて残された婚約者アンナは、残された彼の家族と、やはり残された彼の友人とともに、フランツの過去を辿り直しながら、未来に向って、止まっていた人生の歩みを始める。殺し合っていた敵国同士という障害を超えて、喪失の痛みを超えて。フランツの両親は、自分たちからアドリアンを夕食に招待するようになる。最初はフランツとの最後の思い出をうまく言葉にすることができなかったアドリアンも、次第にパリでの思い出を語るようになる。フランツの訃報後はドレスを着ることなど考えもしなかったアンナもまた、アドリアンと夜祭りに出かけ、彼と一緒に笑顔でワルツを踊るようになる。

ここまでは、痛々しくはあれど、その痛みとともに各々が喪失と悲しみを乗り越えていく話だ。コミュニケーションの強張りは緩んでいき、登場人物に明るい表情が増えていく。

 

後半において露呈するおのおののエゴと、思い出に混ざりはじめる傷

ところが、物語が進んで、登場人物のエゴが露わになる。幸せな人生を再開したいというエゴ、許されたいというエゴ、嘘をつくエゴ、そしてせめて、これ以上自分が不幸になりたくはないし、自分が誰かを不幸にすることで苦しみたくはないというエゴ。「もう何も感じたくなかったし、これ以上不幸でありたくなかった。でもそれってエゴイスティックなことだよね。」このエゴと向き合わねばならないということに苦しみ、逃げ出そうとし、懺悔する。思い出は時間とともに傷ついていく。

この映画は基本的にモノトーンなのだが、フランツの思い出が蘇るときにだけ、画面に色彩が戻ってくる。しかしこの思い出の色彩のなかにも、血と暴力の斑痕が混じるようになる。そしてついには、フランツへの思い出が後景に退く瞬間が来る。過去の思い出を抱くことにも、未来の幸福を願うことにも、もはや取り返しようのない傷がつき、ごまかしようのない嘘の影が差す。「もう遅すぎる。」この傷と嘘を捨てて生きることも、死ぬことさえも、もはや不可能になる。

 

最後のシーン、最後の台詞の意味について

映画の最後のシーン。かつてアドリアンがフランツとともに見たというルーブル美術館のマネの絵画の前で、アンナが呟く「この絵を見ると生きる気になるわ」という言葉。私は、映画を観終わったその瞬間から帰り道までずっと、この台詞を、もっと言えばこのシーンをどう理解してよいのかわからず、映画の内容を反芻しながら考えていた。

考えたすえにひとまずは、どうしようもない自分のエゴイズムを、それがもたらす致死的な傷を、その傷の撤回しようのなさを、アンナが凝視することができたからこそこの台詞が口にされたのだと、理解することにした。そうだとすると、アンナは撤回不可能な傷と嘘を携えてなおも生きることにしたのだということになるだろう。

とはいえもしかするとこの台詞は、自分の傷を隠すため、そして他人をこれ以上傷つけないために嘘をつきつづけた彼女の最後の嘘だったのかもしれない。そうだとしても彼女はこの傷と嘘を捨て去ることはできないが、そんな彼女自身の姿をアンナは目の前の絵のなかに見ていたのだろうか。

前者であれば少しだけ救いがあるような気もするが、それも決して、手つかずの無垢な救いではない。

 

…以下、本筋からは逸れるちょっとした感想を箇条書き

・当時のドイツにおけるナショナリズムや反仏感情の描写が印象に残った。フランツの父も当初アドリアンがフランス人だと知るや態度を急変させたし、地元の居酒屋では傷痍兵を含む男連中が大声で祖国を称える頌歌を合唱し、フランス人と親しくなったフランツの父はかつての友人から距離をおかれるようになった(とはいえ一方で若い女の子たちがフランス人に憧れているような描写もあったけれど)。ある程度まで連合国の世界観に乗っかって(或いは乗っからざるをえなくて)ナチズムに根本的な責任を負わせるものの見方をした(せざるをえなかった)であろう第二次大戦後と、そうではなくてあくまで戦争に負けたというだけの第一次大戦後とでは大分トーンが違ったのだろうか。それとも敗戦直後の敵国人に対する態度なんて一般にこんなものなのだろうか。もちろん、映画中の描写がどこまで当時の現実に即しているのか、という問題もあるのだけれど…

・回想でもそれ以外でも何度かルーブル美術館のシーンがあって、そのなかでもマネのある絵画が物語の鍵の一つになっていた。そしてこの映画ではじめて、当時はマネの絵がルーブルに飾られていたのだということを知った。ちなみにその鍵となる絵画は、かの「草上の昼食」の下に展示されていた。これをオルセーで観た人間としては、ルーブルにマネが飾られているのはなんとなく不思議な感じがした。

 

 

※以下の文章は2017年10月11日~14日に加筆。

物語上の重要なネタバレも含むので、まだ観賞していない方はご注意を

 

1932年のルビッチ映画と2016年のオゾン映画の比較

この映画「婚約者の友人」を鑑賞し記事を書いてからしばらくして、その着想元となったエルンスト・ルビッチの映画(Ernst Lubitsch "Broken Lullaby" US 1932)も観ることができた。ルビッチの映画そのものについては別に記事(「贖罪と嘘、演出された宥和と人間性の切り詰め」)を書いたのでそちらを読んでいただればと思うのだが、せっかくなので、ルビッチの映画と比較した上で思うところを幾つか加筆しておきたい。

なお以下の文章は、基本的に読む方がオゾンの映画「婚約者の友人」を既に鑑賞しているということを前提に書く。ネタバレに配慮もせず、かつ細かいあらすじの説明もしないので、ご承知おきを。

 

オゾン映画の前半、筋をなぞりつつの視点の逆転

まず言えるのは、本作「婚約者の友人」のとりわけ前半は、かなりの程度までルビッチの映画の筋や描写をなぞっているということだ。登場人物の名前こそ変えられているが、アドリアンとアンナ、そしてフランツの両親が出会い仲を深めていくドイツの町での描写は、かなりの程度までルビッチの映画が再現されている。上の本記事に書いたドイツ人グループの反仏感情の描かれ方にしても、それはほとんどそのまま1932年のルビッチの映画のなかに見いだされるものだった。この時代にあえてモノトーンを基調にした映像作品を作るということには、もしかしたらルビッチへのオマージュという理由があるのかもしれない。

とはいえ全てがルビッチの映画そのまま、というわけではない。両映画の間の重要な相違点として、ルビッチの映画が最初から最後までフランス人青年(1932年版ではポール、2016年版ではアドリアン)に定位したものになっているのに対して、オゾンの映画ではむしろ戦死した青年(1932年版ではヴァルター、2016年版ではフランツ)の婚約者(1932年版ではエルザ、2016年版ではアンナ)の視点が採られているという点だ。ここでは、視点がほとんど逆転されている。

実際、1932年のルビッチ版では、フランス人青年ポールがドイツの町にやって来た本当の理由(自分が戦地で命を奪ったドイツ人青年の家族への贖罪)は、映画のそもそもの最初から観る者に共有されている。だからこちらの映画では、フランス人青年ポールが自分の意に反して嘘をつかざるをえなくなっていくそのプロセスや、そこからドイツ人青年ヴァルターの家族や婚約者と意図せず仲を深めていくことになるそのプロセスにこそ、物語上の軸があると言える。

他方2016年のオゾンの映画では、戦死したドイツ人青年フランツの婚約者であったアンナの視点が採られている。それゆえ映画の前半において、フランス人青年アドリアンはあくまでも婚約者の友人として現われることになるし、彼がフランツの命を奪った張本人であるというその決定的な事実は映画の中盤になってようやく——アドリアン自身がその事実をアンナに告げるその時になってようやく——観る者に知らされることになる。

そのため私のようにルビッチ版を観ていないままオゾン版を観た者にとっては、映画の中盤になって突然、物語の前提が大きくひっくり返ることになる。スクリーンの上のアンナの驚きとともに自分自身も驚かされるというこの映画経験はそれ自体なかなか衝撃のあるもので、今でも印象に残っている(だからこそこの映画の記事を書く際にはいつも以上に「ネタバレ」に配慮した)。

もっとも、ルビッチ版を観ていた者は、オゾン版にそれとは違う楽しみ方を見いだすことができるだろうと思う。というのも、既に物語の大筋やオチを知っていれば、視点の相違やそれによるものの見え方の相違を楽しむことができるだろうからだ。

いずれにしても、着想元であるルビッチ版の筋やモチーフをなぞりつつ視点を逆転するというこのことが、この映画の前半から中盤にかけての魅力をなしているように思う。

 

後半、ルビッチ版において描かれなかった現実のエゴイズム 

もっとも、2016年のオゾン映画において1932年のルビッチ映画の筋やモチーフがなぞられているのは前半まで、より正確に言えばフランス人青年アドリアンがアンナのピアノ伴奏のもとでフランツの家族のためにバイオリンを演奏するそのシーンまでだ。このシーンを境に、オゾンはルビッチ版で描かれなかったその後の現実を描き始める。

このバイオリン演奏は、ルビッチ版では最後のシーンを構成している。そこでポール(=アドリアン)は、真実を知りつつも彼を受け入れた婚約者エルザ(=アンナ)のピアノ伴奏とともに、息子の逝去を嘆く家族のために、ヴァルター(=フランツ)の遺品であるバイオリンを演奏するのだ。この演奏のうちに、ヴァルターの喪失を嘆く家族や婚約者は彼らが負った傷の埋め合わせを見いだしており、彼らに対する贖罪を求めていたポールもある種の自己犠牲をもって宥和のために奉仕することになる。演奏の最後、彼らが見せる柔らかな笑顔は、それぞれが抱いていた問題がある種の宥和に至ったことを象徴しているだろう(この点について詳しいことは、1932年のルビッチ映画について書いた記事を読んでもらえたらと思う)。

しかしながら、この宥和は、演出されたものであり、考えれば考えるほど無理のあるもの、様々な疑問が生じてくるものだ。ポールとエルザはヴァルターの両親に対して真実を隠し続けることができるのか。そもそもポールは、フランスでの彼の生活を捨ててヴァルターの代わりを務め上げることができるのか。もしそれができたとしても、そのとき彼らは家族の幸福のために自己犠牲の苦しみを生きることになってしまうのか。もし彼ら自身がそこに幸福を見いだすのだとしたら、それはもはやヴァルターの記憶を忘れ去ってしまうことではないのか。その根底には、贖罪の皮をかぶった人間のエゴイズムがありはしないだろうか。

2016年のオゾン映画は、まさしくこれらの疑問を、ルビッチ映画における演出された宥和では後景に退いている現実を、描いている。フランス人青年アドリアンは、フランツの両親やアンナが求める代理としての役割を演じきれず、彼自身の婚約者が待つフランスへと帰ってしまう。残されたアンナはというと、婚約者であったフランツの命を奪った当人であるアドリアンに恋心を抱いてしまったことに苦しんだ末、その思いを成就させようとアドリアンを追ってフランスへ向かうが、そこでアドリアンに婚約者がいたことを知ってしまう。二人ともが、フランツへの追憶やその両親への贖罪という綺麗ごとには収まりきらない自分自身の生活の欲望を抱いていることに直面する。そしてそれは全て、フランツの両親への嘘によって成り立っている。

オゾンの映画「婚約者の友人」は、とりわけアンナに定位しながら、彼女が直面せざるをえなかった現実のエゴイズムの軌道を追っていく。ここにこそ、オゾンの映画の本領があるだろう。亡き婚約者への追憶の思いと彼の命を奪ったフランス人青年への思慕の思いとの間に揺れるアンナは、傷を負い、嘘をつき、どうしようもない自らのエゴイズムに直面せざるをえなくなる。ここにはもはや無垢な救いはない。それでもそこに、自らのエゴイズムの前に立ち尽くすアンナのもとに、ひとかけらでも救いがあるかどうか。この問いが、映画の最後において開かれたまま提示される。

歴史の流れの残酷さ、資本主義と文化産業の暴力性(ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」/Josef von Sternberg "The Last Command" 1928年)

ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」(Josef von Sternberg "The Last Command" US 1928)を鑑賞。意図せず、無声映画を連夜観ることに。そしてこの時代の映画のもつ力を改めて思い知ることに。

ほとんど予備知識なしで行ったが、これぞ名画、と思い知らされた。決してエンターテインメント性の高い作品ではないし、前半は話の向かう先が見えずやや気持ちが散漫になったが、最後まで通して見て、無駄のない構成と演出、またなによりも役者の演技の力にくぎ付けになった。主演の二人、エミール・ヤニングスとイヴリン・ブレントは、無声映画のなかでその振る舞いと表情をもって、その都度の感情の機微のみならず、目の前の出来事さえをも雄弁に表現してみせていた。ヤニングスが、この演技をもってアカデミー主演男優賞の最初の受賞者になったというのも納得させられる。そこにはまた、字幕による台詞の挿入を最小限に抑え、彼らの振る舞いや表情を通して物語を展開した演出の妙もあるだろう。特に後半、ラストシーンへと収斂する物語のリズムと緊張感は特筆すべきものだったように思う。細かい伏線の回収も見事。88分と決して長い映画ではないので、もしこれから鑑賞する方がいたら、しっかり通して、最後まで観てほしいと思う。

映画全体の印象としては、残酷な映画、というものだった。残酷、というのは残虐な暴力描写があるということではない。その観点からするとこの映画にはさほど残虐なシーンはない。むしろ歴史の趨勢のなかで、人間がかくも翻弄され、かくも容易にその地位と尊厳を失い、かくも唐突に勲章を受ける側から顔に唾を吐きつけられる側へと、さらにはその存在さえ軽んじられる者へと転じうるのだということを描いているという意味で、この映画は残酷なのだ。この歴史の流れの残酷さを一身に受けて生きたロシア人将校を演じるヤニングスの表情だけでも、この映画は観るに値するものだと思う。

 

以下、簡単なあらすじ。

ヤニングス演じる高位のロシア人将校は、祖国への愛と威厳ある態度をもって、革命前の帝政ロシアにおいて誰からも一目置かれる軍人だった。あるとき将校の前に、一組の若い男女の劇団員が、革命主義者の容疑で突き出される。将校は、男性を牢獄送りにする一方で、女性の方を自らに同行させる。やがて将校と女性革命主義者は、お互いの立場の相違を超えて愛し合うようになる。

その折、1917年、ロシア革命が勃発する。反乱する民衆に将校は捕えられ、身ぐるみをはがされる。ついには彼の部下の何人かも、さらには女性革命主義者も、民衆の側につき、彼に唾を吐きかける側にまわる。彼らは乱痴気騒ぎとともに将校を列車に押し込み、満身創痍の彼に、蒸気機関に石炭をくべるというそれまでの彼の地位からすると考えられない仕事を強いる。

ところがそのとき、女性革命主義者が隠れて将校に近づく。彼女は「これしかあなたの命を助ける手段がなかった」とささやき、以前将校から贈られた真珠のネックレスを逃亡資金として彼に手渡す。将校は列車から雪のなかへと身を投げて脱出する。ほどなくして、運転手が泥酔してコントロールを失った列車が脱線し、湖のなかへと沈んでいく。将校はそれをただ眺めることしかできない。

時がたち、将校はアメリカ、ハリウッドへと流れつく。映画のエキストラの仕事を探す彼に、ロシアから亡命してきたある若い監督が、ロシア帝国の将校の役を与える。皮肉なことに彼は、スタッフに罵倒されながら、尊厳に満ちたかつての姿でカメラの前に立つ。「同じコート、同じ制服、同じ男。ただ時代が変ったのだ。」映画のワンシーンの撮影、はりぼての雪原の塹壕の中で、もはや将校ではなくなったはずの彼は、将校の衣装のなかで、将校としての、最後の命令を下す。「前進だ、勝利のために」と。

 

とにかく転調が印象的な映画だ。誰にでも恭しく扱われる将校の立場から、革命勃発後には突然唾を吐きかけられる立場へ。さらにハリウッドではもはや尊厳の対象にも憎悪の対象にもならず、ただただ嘲笑われ軽んじられる立場へ。それは歴史的に言えば、帝国主義から共産主義へ、そして資本主義世界へ、という転調でもある。この歴史の転調に応じて、ヤニングスの表情も大きく変化していく。かつての名誉や尊厳は塵埃と化し、皇帝の勲章も衣装の飾りつけ以上の意味など持たなくなっていく。歴史の流れが、その痛々しい残酷さを露わにする。

かつての将校が将校の配役と衣装でもって命令を下すときには、往年の威厳の輝きが、一瞬だけ彼のもとに戻ってきているように見える。ただしそれはしょせん、彼が本当の将校であったということを知る者にとっての偉大さでしかない。そのような事実を考えようともしない者の目には、威厳を持った彼の態度は、滑稽なものにしか映らないのだ。代わりなどいくらでもいるエキストラが、何を思ったか熱の入った将校の振る舞いなどしてみせたとしても、そんなものは冷笑の対象でしかない。こうして、かつての将校がその尊厳を取り戻したかのように思われたその瞬間には、彼の下す命令の叫びは再び無価値なものへとなっていく。歴史の流れは、かくも無情で、やはり残酷なのだ。

ところで、この映画の特筆すべき点は、物語がハリウッドの映画撮影のシーンで終わる、というところにあるだろう。旧態的な帝国主義ヒエラルキーももはや無意味なものと見做され、革命的共産主義の熱情もそこにありはしない。そこにはあるのはただ、資本主義下の文化産業がもつ、使えるか使えないか、という功利の論理だけだ。もちろん、帝国主義や共産主義がそれ自体として資本主義より優れているなどと断ずるのは、もはや時代錯誤なイデオロギーだろう。しかし資本主義がすべてを相対化し、すべてをその経済論理のうちに呑み込むとき、さらにはかつての様々な価値を文化産業の枠組みのなかで映画として消費しようとするとき、そこには何かグロテスクな相貌が顔を出す。かつての帝国主義の将校も、そこでは、映画のなかの将校役に似合うか似合わないか、カメラの前で映えるか映えないか、それだけを基準に測られることになる。そこには当然もはや尊厳もないし、憎悪すらない。人間らしさも全て、文化商品となる。そしてその文化商品の枠を超え出るようなものは、滑稽で、場違いなものでしかない。場違いなものはただ、残酷な冷笑をもって遇され、処分されることになる。

資本主義と文化産業のもつこのグロテスクな暴力性に、この「最後の命令」なる映画は、肉薄している。もちろん、それがどこまで映画製作サイドによって自覚されていたのかというのは、また別の話だ。いずれにせよ私には、資本主義的な文化産業が展開していくその只中で制作されたこの映画が、同時にまた、文化産業の申し子たる映画が持つグロテスクな暴力性を、自ら体現しつつ、同時に暴露しているように思えた。将校の下す「前進だ、勝利のために」という最後の命令は、文化産業のスローガンとして再び破壊的な力を獲得する。とはいえ、やはり「時代は変わった」はずだし、変わるはずなのだ。文化産業は、自らの暴力性を、はっきりと認識し、自覚し、自らを問い直すことができるようになるかもしれないのだ。

架空の絵空事ではなく、現実の映し絵としての、SF映画(フリッツ・ラング「メトロポリス」/Fritz Lang "Metropolis" 1927年)

新年早々、フリッツ・ラング「メトロポリス」(Fritz Lang "Metropolis" DE 1927)を鑑賞。

ドイツ映画史上の古典でありかつSF映画の先駆、というくらいのことは知っていたが、その評判に違わないというか、それ以上のインパクトのある映画だった。

端的に言って質の高い映画で、物語を通底する世界観や思想も、それを表現する映像と演出も、時代の制約を超えて観る者に迫ってくるものがあった。映画館で通して観たが、145分という時間は全く長く感じなかった。

鑑賞してとりわけ印象に残ったのは、SFものの先駆けということでよく名前のあがるこの「メトロポリス」のイメージの世界が、単に未来の世界を架空の絵空事として描いたものに尽きてはいなかったということだ。むしろこの映画は、一貫して現実の世界の映し絵であろうとしているように思えた。それどころか、現実の社会を戯画化することで、今そこにある問題を告発しようとしているようにも思えた。そしてこの映画に描かれている問題はおそらく、1927年のドイツという歴史的な場所において極めてアクチュアルなものであったのだろうと思う。この意味では、目の前にある現実を写し取り告発することに「SF」映画の出発点があったのだとさえ言える。空想を描くということは、少なくともこの映画においては、現実と対峙することであったのだ。

 

以下、簡単な(やや恣意的な)あらすじ。

この映画中で世界は、地上と地下とに分割されている。地上は華やかな資本家の世界で、着飾った人々が、享楽にふけりつつ、幸福そうに生活をしている。それに対して地下は陰鬱な労働者の世界で、汚れた労働服に身を包んだ人々が、疲れ切った虚ろな顔で行き来する。労働者たちは、決まった時間に地上に赴き、休みなき機械労働に身をやつし、資本家の生活を支えている。映画中で資本家は「脳Hirn」に、労働者たちは「手Hände」に喩えられる。自らの生を享受する「脳」は、「手」たる労働者の生の充実のことなど一顧だにしない。この世界の「脳」にとって「手」は、使い捨ての道具以上のものではないのだ。ここでは両者は決定的に断絶されている。映画中の言葉を借りれば、「彼らは同じ言葉を話しているのに、お互いを理解し合うことがない」のだ。ここではバベルの塔の物語が逆向きにされている。言葉は同じであるのに、人々はお互いに疎外され、コミュニケーションは断絶されている。

この断絶された世界のなかに現われるのが、マリアである。明らかにキリスト教の聖母を暗示している彼女は、労働者たちに、現状の問題とその克服の可能性を説く。つまりばらばらになってしまった「脳」と「手」を結びつける「仲介者Mittler」が必要であるということを説く。マリア曰く、この「仲介者」とは「心Herz」である。とはいえ頭脳と手足を仲介する「心」は、未だ彼らのもとに現われていない。そこでマリアは、そのような「心」たりうる者が現われるのを待たねばならない、と強調する。このマリアに心を奪われるのが、地上の支配者の息子、フレーダーである。フレーダーは、地上の支配層の生まれでありながら、労働者が置かれた悲惨な状況に同情の心を寄せ、地下の世界まで自ら足を踏み入れることをした。それゆえに彼は、マリアから、待望された「心」になることができる者だと名指される。彼ならば頭脳たる資本家と、手足たる労働者を仲介することができるというのだ。

とはいえ、物語はそう単純には進行しない。フレーダーの父であり地上の支配者である資本家フレーダーセンが、マリアと労働者たちの集会を知り、自分たちの生活を脅かす危険因子であるとして問題視するようになるのだ。そこでフレーダーセンは、ヒト型ロボットの開発に取り組む発明家ロートヴァングに、マリアと同じ顔のロボットを作ることを命じる。ロボットのマリアを操って労働者たちの団結を無力化させようと企てるのだ。ロートヴァングは命令通りにマリアを誘拐し、開発中の人型ロボットにマリアの顔を与える。しかしロートヴァングはかつての恋敵であったフレーダーセンの言いなりにはならず、ロボットのマリアに労働者たちの反乱を扇動するようにけしかける。ロボットのマリアは、「手」たる労働者たちに、労働のための機械を破壊し、「脳」たる資本家たちを打倒することを教えるのだ。「仲介者」など待っていても来やしないのだから、「手」が自ら「脳」に取って代わらねばならない――。

物語の後半、ロボットのマリアに先導された労働者たちは地上に押し寄せ、メトロポリスの心臓部たる発電機を破壊する。これによってメトロポリスの電気系統は打撃を受け、大規模な停電が起こり、それを見た労働者たちは歓喜する。しかし同時に地下の彼らの世界では、それ以上の悲劇が起きる。発電機の破壊の影響で、地下の世界は崩壊し、浸水によって水没してしまうのだ。労働者による資本家の打倒は、資本家の世界を確かに小さく傷つけはしたが、それ以上に労働者たち自身の世界に大きな打撃を与え、自らの破滅を招いてしまう。労働者たちは、自分たちの子供を地下に置いてきてしまったことに気付く。資本家の支配者フレーダーセンもまた、自らの息子が地下に取り残されていることを知る。自らの子供がいなくなるということに気が付いて彼らはようやく事態の重要さに気付く。労働者たちは怒りを、自分たちを扇動したマリアに向ける。

そのとき地下では、本物のマリアとフレーダー(そしてフレーダーセンの元部下)が命からがら崩壊から子供たちを助け出していた。彼らが地上に姿を現したとき、マリアは労働者を扇動した魔女だとして追い回されることになる。本物のマリアが逃げまどうなか、姿を見せたロボットのマリアが労働者たちに捕えられ、魔女として火あぶりにされ、ロボットの姿を露わにする。他方でフレーダーは決闘の末ロートヴァングを制する。そして全てが終わった後で、「脳」たる資本家の頭フレーダーセンと、「手」たる労働者の頭とが、「心」たるフレーダーの仲介で手を握り合うシーンをもって、物語は終わる。

 

以上の物語のあらすじからしても明らかなように、この映画はきわめて寓意に富んでいる。基本的には「脳」と「手」とが「心」によって結び合わされることが主題になっているのだが、これはまさしく、資本家と労働者がお互いを許し合い、認め合い、そして協力し合うような在り方のことだろう。このような寓意は、1920年代ワイマール期のドイツが持つ歴史的意識を如実に反映しているように思う。19世紀後半から20世紀といえば、技術や産業の進歩が必ずしも人間の幸福につながらないということがはっきりと自覚されていった時代だ。もう少し具体的に言えば、技術・産業の急速な進歩が資本家による富の独占と労働者の搾取という結果に陥ってしまった時代であり、それに対して労働者の手による革命を説く者もいれば、そのような革命は無力だとして文明自体の没落を説く者もいた時代だ。このような時代のただなか、さらには第一次大戦後の経済不況で窮地に陥っていたドイツにおいて、自分たちがきわめて危険な状態のなかにいるという歴史的意識が支配的だったことは想像に難くない。そこで「脳」と「手」とが断絶されてしまっているという意識が決定的だっただろうことは、この「メトロポリス」なる映画が証言しているところだ。

ところで、この物語を理解する上でもう一つ、見逃せないことがある。それはこの物語の全体が、極めて宗教的(もっと言えばキリスト教的)な含意でつらぬかれているということだ。メトロポリスは聖書のバベルの塔を裏返しにしたような世界として描かれるし、マリアは明らかに聖母を暗示した存在だ。また「仲介者」という言葉も、「待つ」という行為も、きわめて宗教的、キリスト教的な含意をもっている(ここで触れた以外にも、七つの大罪についてなど、様々な宗教的モチーフが登場する)。これは単に、この映画の作り手が信心深かった、ということを意味するわけではない。面白いのは、この映画が現実の社会問題に対して解決の可能性を示しつつも、そこにある種の神学的響きを残している、ということだ。このことが端的に表れているのは、マリアが決して拙速な行動や激情的な革命のようなものを扇動せず、「仲介者を待つ」ことを労働者たちに教えているという場面だろう。仲介は、同情の心を備えたフレーダーのような現実の人間によってなされるとは言われる。とはいえそれは、短絡的な暴動による階級の転覆によって獲得されるものではなく、あくまでその時を待たれねばならないことなのだ。この意味でこの映画の示す道は、単純化された教条的マルクス主義とははっきりと異なっている。マリアの説く「待つ」行為には、最後の神学的含意が残っている。もはやそれは実際的な宗教ではないのかもしれないけれども。

ここから、ロボットのマリアの位置づけもあらためて理解される。ロボットのマリアは、人間の技術によって生み出されたものであり、それでいてマリアという宗教的存在を騙っているものである。つまりロボットのマリアにおいては、人間によって作り出された科学技術それ自体が神の位置にとって代わるという事態が象徴されているのだ。ロボットのマリアは、人々を扇動し、破滅にもたらす。まるで歯止めを失った科学技術が、或いは地球上に作ることができるとされたユートピアの設計図が、人々を世界史的な悲劇へと煽り立てたように。とはいえこのマリアは人間そのものではない。だからこそ人々は、このロボットを魔女として火あぶりにして、誰も責任をとらぬままに、自分たちはその被害者であると主張することができてしまう。もともとは人間の手による技術が技術として神となり、人を支配するというその事態のグロテスクさをも、この映画は描いている。

 

このような感想を書きたくなるくらいには、「メトロポリス」なる映画の奥行はとても広いものであったと思う。ここに書ききれない着想もいろいろあった。例えばこの映画から当時の西欧マルクス主義思想の反映を読み解くこともできるかもしれないし、後にナチスを逃れてアメリカへ赴く監督ラングの人物史や彼の影響史からこの映画を読み解くこともできるだろうと思う。勿論、映画そのものの表現・技法についても、言及されるべきことはいくらでもあるだろう。

歴史的制約について言えば、無声映画作品であり、セットや衣装、背景装置などが、現代のそれと比べてひどく安っぽいものであることは否定できない。高層ビルから見下ろすメトロポリスも、それを支える発電機も、どうみてもぺらぺらの書き割りでしかない。しかしそれでも、当時としては莫大な予算と労力を投じて作られただろうイメージの世界は、観る者がそこに目と感情を奪われるに十分な奥行と動きと質を持ったものとして提示されていたように思う。歴史的な条件というのは作品が表現するものにとって二次的なものでしかない、ということを再確認させられる。その意味でこの映画は、今なお全く失われない説得力を持っているように思う。

このブログについて

はじめまして。

ドイツ某都市に留学している者です。

去年からこちらで映画を観ることが多くなり、個人的にちょこちょこと感想など書いていたのですが、どうせならブログという形で公開するのも悪くないかもしれないと思い当たりました。

そういうわけで、2017年になったこの機会にブログを開設することにしました。

細々とやっていければと思っています。

 

以下、いくつか注意書き(訂正、追記あり)。

・自分のための忘備録という性格のものなので、映画の筋の「ネタバレ」に関して原則的には配慮しないつもりです。なので大事な筋、内容も書いてしまうかもしれません。気にする方はご注意を。

・追記(2017.1.7):あらすじを書くことが映画鑑賞を妨げてしまいかねないような映画、特にこれから鑑賞する人もいるだろう新しい映画については、重要な「ネタバレ」をしないように気をつけようと思います。それでも余計なことを書いてしまう可能性はありますが…。

・映画の感想は、そのときの自分のコンディション次第で、力の入ったものになるときと、テキトーなものになるときと、ばらつきがあるだろうと思います。暖かく見守っていただければ。

・基本的には近所の映画館で上映されている映画を中心に鑑賞、レヴューしていくつもりです。私の語学能力の問題で、映画の内容理解が追いつかず間違いを書くこともあると思います。もし何かおかしな点等に気が付いたら、指摘していただけると嬉しいです。

・追記(2018.6.2):昨年の8月からしばらく当ブログの更新が止まってしまっていました。丁寧に書こうとしすぎて、うまく自分の時間とエネルギーをそこに向けられなかったのかもしれません。とはいえその間も映画はそれなりに観ていて、記事を書けないことを残念にも思っていました。そういうわけで、反省を踏まえて、試みとして最大1,200~1,500字以内という文字制限を課した上で書いてみようかな、と思っています。どうも文章を書き始めると延々と書いてしまいがちで、しかもそれが負担になってしまうという悪循環にも陥りがちな人間なので、ある程度制約があった方がいいのかなと思っています。自分に負担にならない範囲で、またぼちぼちと忘備録代わりに更新していければと思っています。

 

それでは、よろしくお願いします。